医学界からの強い要請を受け、未知の世界へ

心臓は収縮と弛緩を繰り返しながら、酸素や栄養を含んだ血液を全身に送り出すという重要な役割を担っています。それだけに扱いの難しい臓器とされてきましたが、1950年代に入り、国内外で「人工心臓」の研究開発が行われるようになりました。
わが国の人工心臓研究の中心人物は、東京大学医学部の医局員だった渥美和彦氏。後に国際人工臓器学会理事長を務めるなど、人工臓器界の権威となった人物です。ちなみにこの渥美先生は、『鉄腕アトム』の作者・手塚治虫氏と旧制中学の同窓生であり、お茶の水博士のモデルの一人とされる方でもあります。
そして、1958年秋、渥美先生が手がける人工心臓の開発に産業界から協力することになったのが、医療とはまったくの無縁だった特殊ポンプ工業株式会社(日機装の前身。以下、日機装)でした。

渥美 和彦 先生(1993年撮影。当時、東大名誉教授、国際人工臓器学会理事長)
渥美 和彦 先生
(1993年撮影。当時、東大名誉教授、国際人工臓器学会理事長)

「心臓は特殊ポンプ」――そのひと言に励まされ

産業用ポンプが主力製品だった当時の日機装にとって、「人工心臓の試作機製作を」という依頼はあまりに唐突で、はじめは難色を示していました。しかし、この畑違いの挑戦を決断させたのは、渥美先生の10回にも及ぶ熱心な訪問の末、「心臓は特殊ポンプです」というひと言が最後の一押しとなったからでした。
いざ開発に着手してみると、素材の選定にはじまり、脈波形の表示方法、圧力に対する壊れやすさなど、さまざまな難題が発生。しかし、未知の分野に挑戦する社員たちの情熱が課題の一つひとつを解決し、1960年7月、ついに人工心臓の試作機第1号が完成しました。さらに、同年12月に行われた動物実験では、人工心臓を装着した犬が自己の心臓なしで5時間30分まで生存記録を伸ばすという画期的な成功を収めました。この実験は1962年まで継続し、翌年、その成果をASIO(アメリカ人工臓器学会)で発表したところ、大きな反響を呼び、日本でもエポックメイキングな出来事としてマスコミに大きく取り上げられました。
当社は、人工心臓の開発を通じて、産業用ポンプ製造のノウハウが「生命を守ること」にも応用できると知りました。そして、きわめて強烈な印象を与えたこの経験が、本格的に医療分野に進出するきっかけとなったのです。

日本初の人工心臓とその作動概念図
日本初の人工心臓とその作動概念図
1960年代 日本初の人工心臓試作機
1960年代 日本初の人工心臓試作機